「個人」という錯覚を解く

悟りとは、あらゆる錯覚の消えた状態である。

智慧

悟った人(この言葉は矛盾だがあえて使う)なら誰でも悟りへの道程を解説できるかというとそれは違う。

悟り以前に培ったものが智慧として反映されるからである。

だから、悟り(苦しみからの解放という意味で)を求める人は誰の教えを聞くかが重要である。

誰の教えでも良いわけではない。

特に智慧の素質が鋭い者は、原始仏教、あるいはダイレクトパスの教えが良いだろう。

智慧はそれほどでもないが、慈愛溢れる者は、非二元や大乗仏教の教えが良いだろう。

智慧も慈愛もほとんどない者は、悟りという可能性はあるが、絶望の末悟りに至るか地獄に至るかのギャンブルになるだろう。そのような者は悟りに至った場合、教えを説かなければ良いのだが、もともとのエゴのひどさから、却って良くない教えを説いてしまう。

悟りには差がないが、教えには差があるので、気をつけよう。

「ある」とするものは常住に陥る。「ない」とするものは断滅に陥る。

仏教はどちらでもなく、縁起を説く。