「個人」という錯覚を解く

悟りとは、あらゆる錯覚の消えた状態である。

対機説法以外にない

仏教では対機説法という言葉がある。

これは相手によって法の説き方を変えるということである。

実際、そのような相手による説法しかできないのである。

なぜなら、仏教とは全ての観念を破壊する教えであり、そこが科学とは似て非なる所以である。

観念は無数にあるが、「私は身体である」「私には何かが欠けている」「私(がいる)」「苦しみ以外もある」といった共通の主だった観念以外は、皆それぞれ異なった観念を持っている。

観念が人それぞれなので自ずから説法(観念の壊し方)も人によるということになる。