「個人」という錯覚を解く

悟りとは、あらゆる錯覚の消えた状態である。

2018-01-01から1年間の記事一覧

葛藤に打ち勝った

葛藤に打ち勝った。 発端は些細な理想だった。 今日これだけはやり遂げる、という意志のもとそれに取り組んだ。 しかし、次々と悪条件が重なり、雲行きが怪しくなっていった。 焦りや一種の後悔のようなものが迫ってくる。 「いけない」 仕事に集中してそれ…

十二縁起

十二縁起。十二因縁ともいう。 これは時系列の因果関係ではない。時系列で考えるとさっぱりわけのわからないものになってしまう。 これは縁起のドミノである。 老死は有るのでも無いのでもなく、縁に依って起こっているのである。 つまり、無明が晴れると、…

対機説法以外にない

仏教では対機説法という言葉がある。 これは相手によって法の説き方を変えるということである。 実際、そのような相手による説法しかできないのである。 なぜなら、仏教とは全ての観念を破壊する教えであり、そこが科学とは似て非なる所以である。 観念は無…

ヴィパッサナー

ヴィパッサナーという瞑想がある、らしい。 自分は師についたことがないので文献情報だけで知っているのであるが、この瞑想のラベリングというのは蛇足であると思う。 これはおそらくあまり理解のない者が四念処と瞑想をごっちゃにしてしまったのではないだ…

全ては苦しみである

全ては苦しみである。 苦しみが生じる。 苦しみが滅びる。 生じる前、滅びた後に焦点を当てれば苦しみはもう苦しみとならず、力を失いやがて「実在」だけが残る。

時には追い求めるのを止めよう

何か追い求めているものがあるなら、 たとえそれが悟りと名付けられたものであっても、 時には休んで良いんだと割り切って、 リラックスしてみよう。 解放感を感じたとき、 「求めていたものはこの解放感だったんだ」 と思わないだろうか。 これに気づけば追…

知識を求めることこそ無知のあらわれ

知識を求めてどうしようというのか。概念、観念をどこまでも積み上げるだけではないのか。 概念、観念はいくら組み替えても真実に到達することはない。 それらを捨ててこそ真実に到達するということがある。 知識を求めることが無知のあらわれである。

智慧

悟った人(この言葉は矛盾だがあえて使う)なら誰でも悟りへの道程を解説できるかというとそれは違う。 悟り以前に培ったものが智慧として反映されるからである。 だから、悟り(苦しみからの解放という意味で)を求める人は誰の教えを聞くかが重要である。 …

全ては苦しみである

全ては苦しみである。 すでにこれ以上ない解放があるのに何かを求めようとするからである。 全てはガラクタである。 すでに至宝があるのに何かを求めようとするからである。 全ては蛇足である。 すでに完全で完璧な芸術品に何かを足そうと試みるからである。…