「個人」という錯覚を解く

悟りとは、あらゆる錯覚の消えた状態である。

葛藤に打ち勝った

葛藤に打ち勝った。

発端は些細な理想だった。

今日これだけはやり遂げる、という意志のもとそれに取り組んだ。

しかし、次々と悪条件が重なり、雲行きが怪しくなっていった。

焦りや一種の後悔のようなものが迫ってくる。

「いけない」

仕事に集中してそれらを振り払おうとした。

「出来るか出来ないかは問題ではない」

「この悪想念に取り込まれることが問題だ」

しかし、払っても払ってもそれはまとわりついてくる。

ついには睡眠中にもまとわりついてきた。

取り込もうとする敵と切捨てようとする自分。

一進一退の攻防が続く。

遂にはもはやこれまで、と思い、覚悟を決めた

「来るなら来い」

悪魔と真正面から向き合った、そのとき、なんと悪魔が消え去った。

誰かが祝福してくれているようだった。

 

十二縁起

十二縁起。十二因縁ともいう。

これは時系列の因果関係ではない。時系列で考えるとさっぱりわけのわからないものになってしまう。

これは縁起のドミノである。

老死は有るのでも無いのでもなく、縁に依って起こっているのである。

つまり、無明が晴れると、行、識、・・・、生、老死の全てが消えるのである。

消えるというか、元からなかったというか、錯覚が消えるようなものである。

しかし、その錯覚は輪廻転生を生み出すほどの強力な錯覚である。

お釈迦様は、「生けるもの」を認めることを「悪しき見解」とおっしゃっている。

つまりは生、老死が有るということが「悪しき見解」である。

十二縁起は「悪しき見解」を生み出す原因を考察したものである。

対機説法以外にない

仏教では対機説法という言葉がある。

これは相手によって法の説き方を変えるということである。

実際、そのような相手による説法しかできないのである。

なぜなら、仏教とは全ての観念を破壊する教えであり、そこが科学とは似て非なる所以である。

観念は無数にあるが、「私は身体である」「私には何かが欠けている」「私(がいる)」「苦しみ以外もある」といった共通の主だった観念以外は、皆それぞれ異なった観念を持っている。

観念が人それぞれなので自ずから説法(観念の壊し方)も人によるということになる。

ヴィパッサナー

ヴィパッサナーという瞑想がある、らしい。

自分は師についたことがないので文献情報だけで知っているのであるが、この瞑想のラベリングというのは蛇足であると思う。

これはおそらくあまり理解のない者が四念処と瞑想をごっちゃにしてしまったのではないだろうか。

ラベリングなどする必要はない。

ラベリングをしないことによって、本当に必要なラベリングは自動で起こる。

本当に必要なラベリングが起きたとき、意識の焦点が変わり、世界の見え方が変わる。

座禅でいう「ただ座る」というのがヴィパッサナーに通じる。

時には追い求めるのを止めよう

何か追い求めているものがあるなら、

たとえそれが悟りと名付けられたものであっても、

時には休んで良いんだと割り切って、

リラックスしてみよう。

解放感を感じたとき、

「求めていたものはこの解放感だったんだ」

と思わないだろうか。

これに気づけば追い求めることから止まることへのシフトが始まる。

知識を求めることこそ無知のあらわれ

知識を求めてどうしようというのか。概念、観念をどこまでも積み上げるだけではないのか。

概念、観念はいくら組み替えても真実に到達することはない。

それらを捨ててこそ真実に到達するということがある。

知識を求めることが無知のあらわれである。